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FIFA女子ワールドカップ 2015 カナダ大会 準決勝「日本×イングランド」戦。
2015年7月1日17時(日本時間2日8時)天候は快晴なり。NHKのテレビ中継が始まり、ワールカップ三大会出場の元なでしこ宮本ともみが解説、アナウンサーは松野靖彦。試合会場には既に大勢の観客が詰めかけているスタンド席の模様が映し出され AC/DCの 「サンダーストラック」"Thunderstruck" がBGMとして厳かに流れている。これから轟く雷鳴と稲妻を予感させる。試合開始直前、テレビ画面からも感じられる程にトーナメント独特の張り詰めた空気が競技場を埋め尽す中で恒例の国歌が流れ出す。映像は、なでしこ選手達の顔が順番にアップで映し出され、多くが瞼を閉じ胸に手を当て「君が代」を厳かに口ずさむ様子からも心地良く緊張した面持ちで必勝への気迫が読み取れる。続いて「神よ、女王を護り賜え」"God Save the Queen" が流れるとイングランド選手が肩を組み大きく胸を張って目を見開き笑顔さえ讃えて高らかに唄う様が映され、目を逸らさず決戦に対峙する意気込みが伺える。なでしこと対照的である立ち姿の様は、慣習なのか彼女達の意気地なのかは計り兼ねるが、観る側にとっても非常に印象的である。両キャプテンがエールの交換を終えるとチームメンバーが円陣を組んでチームメンバーが互いを鼓舞した後にキックオフされた。
試合開始直後から緊迫した一進一退の攻防が続く。イングランドは容赦なく敵陣にロングボールを蹴りこんでゴールに向かって一直線に突き進む。なでしこも負けじと、イングランドのお株を奪うが如く岩清水梓選手からの縦パスで有吉佐織選手が突進する。大野忍選手を起点として右サイドの川澄奈穂美選手ヘパスを繋ぎそしてセンタリングを狙う。自陣から受けたパスを川澄奈穂美選手が立ちはだかるディフェンダーをギアチェンジして振り切り一気に右サイドを駆け上がる。
力の拮抗した同士のやり取りが永遠に続くようにも思えたが、早くも前半30分にその均衡が破れる。阪口夢穂選手の縦パスに反応した有吉佐織選手がペナルティエリア内に跳び出してイングランドのファールを誘ったのだ。このファールで得たPK(ペナルティーキック)をキャプテン宮間あや選手がゆっくりとした所作で落ち着いてキーパーの動きを最後まで見て確実にボールを蹴りゴールネットを揺らした。宮間あや選手はゴールを決めるや否や自陣ベンチに向かって駆け出して、歓喜する控えの仲間達と抱き合って先制した喜びを分かち合う。チーム全員で戦っているのだ。しかし、まだ試合は前半途中であり安心するには気が早すぎる。何故なら、なでしこが前回大会で唯一負けている相手こそが仇敵イングランドなのである。
そして、その時は何の前触れもなくやって来た。前半37分、自陣の左サイドで鮫島彩選手が前線にボールを供給するのを阻みにプレッシャーを掛けに来た長身のイングランド選手が身体を張ってブロックしてクリアした際だった。
アナウンサーが突然、「実は今朝ですね、私が泊まっているホテルの朝食会場で、あのジルスコットのお兄さんが居まして、」と話し始めた。「ハイ。」と解説の宮本ともみが相槌をうつと、「どうやら私を日本人だと気づいてですね、『サッカー観に来たのか?』と聴かれたんですよ。『いやいや、報道しに来たんだ』と答えたら、『妹が出てるから宜しく』と挨拶されました。」「『ヨロシク』...って言われたんですか?ハイ。」とちょっと困った感じの受け応え。「お互いに『グッドラック』と言って別れたんですが。」
この後ほんの数秒だが、暫しの沈黙と会場の歓声だけが音声として流れた。
青く晴れ渡った空に突然激しい雷鳴が鳴り響いたのだ。青天の霹靂である。そして何事もなかったかの様に彼は実況を再開する。「コーナーキックです。さぁ、ここは要注意です。... その長身181cmのジルスコットがまたゴール前上がってきました。」この直後の前半38分、逆にイングランドにファールを与えてペナルティーキックを許してしまうのである。そして試合前半はこのまま一対一の同点で終りを迎える。
もしかすると、サッカーの中継でそんなコメントを聴くのは初めてだったかもしれません。それは、アナウンサーが身の回りで起きたことを話したから同点にされてしまったのだというような稚拙な言いがかりで責めるつもりは毛頭御座いません。むしろ、その世間話のお蔭で「ジルスコット」(Jill Scott)という名前(単語)を一瞬で憶えてしまったのです。同時に背番号8番、ゴールキーパーかと思わせる程の長身ミッドフィルダーで面長のイングランド選手の容姿までもが焼き付いてしまいました。彼女の長身が故にゴール前での高さを有効にした攻撃が危険だとすぐに識別できたのです。他人の顔と名前を覚えるのは苦手である筆者が久しく味わっていない快感です。これは単なる記号、符号としての名称である名前から物語という背景がついた人物として骨子となる情報に肉付けされたからだと推理されます。
記憶は個別ではなく何かと何かが紐づくことで覚えるのでしょう。そしてその記憶を思い出せるようになります。空の箪笥に次々と洋服を詰め込むことができるのは引き出しの容量に余裕があるときですが、入れるスペースが無くなった、或いは、場所が見つからない状態では新しい洋服を仕舞うことができません。ましてや箪笥にたどり着けず引き出しを開けることが適わないのであれば、仕舞った洋服を取り出せません。
以前のコラム(「第8回 記憶の倉庫」、「第35回 忘却の空」をご覧下さい)にて記載しましたが、「記憶の宮殿」"Mind Palace" を形成するのは並大抵の修練では適いませんし、筆者は以前の様に何でも詰め込んで覚えることが出来なくなっていると事あるごとに自覚させられています。気になる書籍のタイトルや作家の名前は忘れてしまいますし、ミュージシャンではダフト・パンク(Daft Punk)辺りまでなら既知ですが、後輩に教えて貰った新進気鋭のバンド名は変わった名称が多くて(「森は生きている」とか "tofubeats"「トーフビーツ」等など)筆者にとっては意味のないオノマトペのようで断片ですら記憶に留めることができません。映画ですら最近何度か見る若手の俳優、女優の名前を顔の映像は浮かんでくるのですがその人の名前を想いだすことができないのです。確かに一度覚えたはずの役者でも名前が引っ掛かって、箪笥の引き出しを開くことが出来ません。
ですが、不思議なことに昔に覚えた事からは割と簡単に紐解くように思いだせるのです。例えば、テニス選手の名前でもビョルン・ボルグ(Björn Borg)、ジミー・コナーズ(Jimmy Connors)、ジョン・マッケンロー(John McEnroe)、イワン・レンドル(Ivan Lendl)、ボリス・ベッカー(Boris Becker)、マイケル・チャン(Michael Chang)、ステファン・エドベリ(Stefan Edberg)、アンドレ・アガシ(Andre Agassi)、ゴラン・イワニセビッチ(Goran Ivanišević)、ピート・サンプラス(Pete Sampras)、ロジャー・フェデラー(Roger Federer)、ノバク・ジョコビッチ(Novak Đoković)、そして錦織圭(Kei Nishikori)にまで至ります。ウィンブルドンで活躍した歴代プレーヤー達の特徴だらけの雄姿がその映像として永続化されている上に時系列に「点」ではなく「線」として記憶されているからでしょう。
シナプス(Synapse)が太く繋がることで大きく機能が増すように、個別の情報が繋がることで別の視点を持ち得て俯瞰が可能となり更なる価値へと踏み出すのです。
テンプル・グランディン(Temple Grandin)という米国の動物学者が牛にストレスを与えない家畜施設を設計してそれが全米の牧場で広く採用されていることを最近知りました。彼女の半生は映画化がされているのですが(題名:「自閉症とともに」、原題:"Temple Grandin")、それは彼女が発達障害だとレッテルを貼られたからでした。事実、高機能自閉症だった彼女は実は聴覚よりも「視覚優位」だったのです。そして視覚優位である人は眼球から脳への中継シナプスが通常のそれよりも大幅に太い経路で結ばれていることが頭部MRI画像からもはっきりわかる程に密に繋がっており、まさに首都高を走るトラックの如く脳へと映像の情報伝達する様が想像されます。その特殊能力のお蔭で彼女は外界を認知するために視覚を主体にして牛を観察して思考していた結果が画期的な家畜施設の設計として実を結んだのだそうです。
彼女だけでなく高機能自閉症やアスペルガー症候群と診断される方には多くの天才がいるそうで、建築家のアントニオ・ガウディ(Antoni Gaudi)や作家のルイス・キャロル(Lewis Carroll)達も自閉症だとされています。彼らの突出した創作活動は認知の片寄りに拠るものであり、それはシナプスの連携度合いに比例していると憶測されます。
基盤としてプリントされて決まった結線がなされている現在のコンピュータとは異なり、脳ではシナプスが伝達物質としてシグナルを送出する経路として情報伝達する際に自由に連携先を変えることが可能であり、その連携を同じ個所で繰り返すことで同じ道を何度も踏み締めて歩くように余計に強くシナプス同士が連携しやすくなるのでしょう。記憶の反芻が重要なのです。予習、復習といった反復学習が有効であることの証明にもなります。そのうちに次世代コンピュータとも目される非ノイマン型であるニューロコンピュータ、そしてニューラルネットワークの話題へと展望できればと思っています。
ところで冒頭のなでしことイングランドの奮戦ですが、後半戦開始前にこの試合の勝機があると思わせるシーンがありました。円陣で肩を組んで気合を掛けるキャプテン宮間あや選手にムードメーカーである大野忍選手が宇津木瑠美選手を挟んでキャプテンの左腕に付けた幸せの黄色い腕章を掴んで脇腹を擽るようにチョッカイを出しているのが映し出されました。とても象徴的シーンでチームにまだ余裕があることを匂わせるのです。窮地に立たされた状況で真剣さを増すと逆効果で誰でも殊更硬くなってしまい視野と思考が狭くなるのは経験則でもお分かりでしょう。危機的状況で真面目になっちゃ駄目なのです。その予想を裏切ることなく延長戦かと頭を過る後半ロスタイムに幾度となく右サイドを駆け上がる川澄奈穂美選手から中央の大儀見優季選手へと配球するクロスボールを必死でクリアしようとしたイングランドのローラ・バセット選手のオウンゴールを誘い突然の結末を迎えます。青天の霹靂、再びです。
その後の最終戦に駒を進めたものの、アメリカとの決勝戦になでしこは惜しくも勝機を逸してしまったようです。実は試合を見ていません。自分で見るまで結果を知りたくなかったのですが、先に知ってしまったことで痛々しくて未だに再放送で観戦することすらできないのです。筆者のメンタルはこの程度のおセンチ(センチメンタル)でして、彼女達と比べたらとても情けないものです。
激闘の日々を過ごした後の彼女達なのですが、以前のコラム(「第25回 リンスカム」を併せてご参照下さい)に記載した本田圭佑選手の発言にシンクロするのですが、大儀見優季選手は会見で「力不足を感じた。チームが強くなるには、個としての更なる成長が必要」との趣旨の発言をしていました。彼女自身がそれを有言実行しており正に体現しようとしているのでしょう。代表復帰した澤穂希選手は、なでしこの立役者であり今までずっとチームのために尽くしてきた彼女らしく今大会も陰日向となり貢献していましたが、彼女にとって最後のワールドカップということでもっと自分本位で奔放に輝いて欲しいと願った反面、その澤穂希選手からキャプテンを引き継いだ宮間あや選手は大会前の発言で「絶対にワールドカップは譲らない」と周囲に不安を見せることなく(見せたくない)不安は秘めてひた隠しながらも、その反面「気持ちの強い方が勝つ」と繰り返しチーム皆を奮い立たせるべく鼓舞したのだと想います。キャプテンが率先して一人ひとりに相対することで試合ごとに各々が成長を遂げ強くなることで僅差ながらも勝ち進み最後の舞台に立つことを適えたのです。なでしこ二十三名全員で戦った大会を終えた帰国後の会見で宮間キャプテンは「悔しいが、やれることは全部やった」と報告してくれました。ですが、これで燃え尽きてしまうのではなく、彼女は「なでしこは、まだまだ続いていくとおもうので」と引き続き彼女達の物語は続いていく意欲を表してくれました。奥ゆかしくも芯の強い「なでしこ物語」の次回作も期待に違わないものでありましょう。皆と一緒に応援させて頂きます。
ところで試合終了の笛と供に号泣していたイングランドのローラ・バセット選手ですが、彼女はこの準決勝のオウンゴールについて後日「誰も自分の名前を覚えていないで欲しかった」と語っています。この溢れ出た言葉を吐露した彼女の悲痛な気持ちは分かり過ぎる程に良く解ります。ですが準決勝直後の三位決定となるドイツ戦で彼女はサンプソン監督に進言したそうです。「私が必要ならチームに入る準備は出来ている」と。彼女のメンタリティは尋常ではないほどに異様に強いものであると感嘆せずには居られません。逆立ちしても到底、真似が出来るものではないでしょう。
決勝戦直後のインタビューで宮間キャプテンは溢れる涙を抑えきれずにいましたが、インタビューワーからの最後の質問で「この四年間で手に出来たものってどんなことでしょうか?」と問いかけられ、瞬時に凛々しい表情に戻って間髪入れず「最高の仲間だと想います」と答えています。仲間が大切と感じられることこそが真っ直ぐに前を向いて生きている強さの証拠でありましょう。
次回もお楽しみに。
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